その後の真田さんち
壱 -幸村の子供たち-
幸村っちは美男子だったと伝えられてます。その割にはあの肖像はあんまりかっこよくないですよな…。
んー、時代と美意識の違いって言うんでしょ?それはわかるんですが、さらに昔の源頼朝像は現代人が見てもかっこいいと思うんですよね。
話が数光年それました。それで、美男子だったからってわけじゃないでしょうが幸村には奥さんが少なくとも4人おりました。
正室である大谷吉継の娘さん以外はあんま有名じゃないんですが、羽柴秀次(秀吉の養子)の娘さんも奥さんだったんです。
彼女たち4人の奥さんとの間に、10人(11?)の子供が生まれます。
ということで、その幸村っちの10人のエンジェルについて語ることにします。
長女 阿菊(「すへ」とも)
おっかさんは、家臣である堀田作兵衛という人の娘です。上田で生まれました。
そのおじいちゃんである作兵衛どんは大坂で討ち死にしました。天晴れ家臣!
石合十蔵という人に嫁いでいます。
この人には幸村が手紙を書いているので、名前を知ってるマニアもおられるはず。でもどんな人かよく知りません。
寛永19年に亡くなっているそうです。1642年か。いやあ、西暦じゃないとイメージわかないっす。ボクばりばり現代人。
生まれた年はよくわからないんですが、長女でしかも上田生まれってことは1600年以前に生まれていると思われるので、まあまあ生きてますかね。42だとすると若いですが。
次女 於市
おっかさんは、またも家臣である高梨内記という人の娘です。しかし一説によると阿菊と同じく作兵衛どんの娘とも。
彼女も上田生まれ。
おじいちゃんである内記どんも大坂で討ち死にしました。おおっ、ダブル天晴れ家臣!
彼女は生没年がはっきりしなかったんですが、九度山で若くして病死されたとか。
三女 阿梅
一番有名な娘ご。内記どんの孫です。於市さんの妹。
でも大谷吉継サマの娘の子って説も有力です。
慶長5年(1604)年、九度山で生まれました。が、母親がどっちかによって生まれた年も場所も変わってしまいます。
大坂の陣の時に、伊達家の重臣、片倉小十郎重綱(のち重長)が大坂城からつれてきます。
このときの経緯についてはおおまかにツーパターンあります。
一、大坂城中で、薙刀を持ってがんばる阿梅を、「ひゃっほーう、こんなところにオイラ好みの美少女ちゃんが〜」と強奪した。
幸村の娘だったって事はその当時の奥さんが死んでから知ったので、後妻にした。
「ひゃっほーう」ってアンタ、阿梅ちゃんは当時12歳よ(って、んなこと言ってないし)。
二、小十郎の武勇を見込んだ幸村が、娘を託した。
えーっと、僕はけっこう小十郎好きなんで、二を切に希望。って、勝手に脚色しておきながら…。
実はこのとき、他の妹や弟とともに穴山小助の娘も阿梅について行ったという伝承があり、穴山小助の実在をほのめかしています。
阿梅はそれから白石城で暮らし、17歳の時に小十郎の奥さんになります。
すると、幸村の家臣だった者たちが阿梅を頼ってぞろぞろやってきたので、みんなのことを快く世話してあげました。
44歳の時に月心院というお寺を真田の菩提寺として建てます。
それから元和元年(1681年)に78歳で亡くなりました。波乱の人生ですね。
四女 あぐり
正室である大谷吉継サマの娘さんがおっかさんです。
九度山で生まれました。生没年不明でやんす。
大坂の陣ののち、滝川一積(信長の家臣、一益の孫)の養女になったとか。
その後は蒲生家の重臣、蒲生郷喜に嫁ぎます。
ところがこれが、敵の娘を勝手に嫁がせたってんで蒲生家でもめてもめて、一積ちゃんは改易されてしまいます。およよ…。
蒲生家が断絶したのち日向延岡に行くんですが、その後消息不明だそうです。およよ…。
五女 なお(御田姫)
おっかさんは羽柴(三好)秀次の娘。九度山で生まれます。
ここんところから三好兄弟は生まれたのかもしれませんが、その関係性は目下調査中っす。
大坂落城の前に母子で京都にいる瑞龍院日秀尼(秀吉の姉ちゃん)のもとに避難。親戚さんです。
成人してから岩城宣隆に嫁ぎます。
この岩城って家は秋田城主だった佐竹氏の支流で、家康から所領を没収されるもめげずになんとか復活したがんばり屋さんの家系です。
彼女は跡継ぎを生みますが寛永12年(1635)年に32歳でなくなりました。気苦労、あったんだろうなあ。
六女 阿菖蒲
大谷吉継サマの孫ですよん。九度山生まれ。
阿梅ちゃんとともに北上して白石で暮らし、青木次郎右衛門の妻になりますが、のちに伊達家家臣、田村定広と再婚。
寛文4年(1664年)に亡くなりました。
彼女と七女のおかね、それからいたかいなかったかわからない娘さんがもう一人いて、この三人はデータが曖昧です。
七女 おかね
彼女もまた大谷サマの孫にあたります。やはり九度山生まれ。
生没年不詳。
とりあえず白石に行って、そこで育てられたらしいんですが、なぜか京都で嫁いでいます。
尾張の犬山城主だった石川貞清という人に嫁いだんですが、貞清さんは関ヶ原の時に浪人しており、宗休と名乗って茶人になっていました。
金融業をやっていた、って話も。
なんか、もうよくわかんねーよ。
女
大谷吉継の娘の子で、阿梅らとともに白石に連れてこられますが早くに亡くなったらしいです。
名前を始め詳しいことは何もわかっておりません。存在したかどうかすら。
長男 大助(幸昌)
来ました大助ちゃん。
彼についてはもはや言うことはないと思うんですけど改めて。
慶長6年(1601年)に九度山で幸村と大谷吉継の娘の間に生まれたとされますが、生まれた年については資料によって前後するようです。
若干13,4歳で幸村とともに大坂入城。夏の陣では誉田の戦いで活躍します。
幸村が果てた日は父の命により、秀頼のそばについて出陣を嘆願。
とうとう聞き入れられず大坂城が落ちると、「将たるものの腹切りでは佩楯は取らぬ、我は眞田左衛門佐の倅なり!!」と叫び、鎧をつけたまま切腹しました。
凄すぎ。天晴れすぎ。13歳でそんな…。多めにとっても16歳ですよ。
さすがは幸村っちの息子、彼がもっと長生きしていたら、歴史はどうなっていたかわからないっすね。
次男 大八(片倉守信)
彼も正室の大谷吉継の娘を母に持ちます。
慶長17年(1612年)生まれ。もちろん九度山で。
阿梅たちとともに白石で片倉家のやっかいになるわけですが、彼にはちょっとおもしろい話が。
彼は伊達家の情報操作により記録上殺されているんです。
小十郎が阿梅らを保護したのことは無論幕府に届けてません。バレるとちとまずいです。実際、あぐりのために蒲生家はもめてます。
女なら大して問題にはならなかったでしょうが、大八の存在を察知した幕府は片倉さんちに家系調査を言ってきたらしいのです。
そこで、伊達家は真田の菩提寺、高野山蓮華定院に、「大八君八歳にして京都にて印地打ちにて石に当たり他界」の情報を流しました。
「印地打ち」というのは、子供の石投げ合戦みたいなやつです。
この情報は幸村の兄、信之のもとに伝わり、真田家の正史に記録されてしまいました。
それから時は流れ、大八は片倉四郎兵衛守信と名乗り、しれっと仙台藩士になってました。
一旦真田姓に戻したんですが、また幕府ににらまれます。
そこは、早くから家康に仕えていた幸村の叔父である信尹の孫、ということでごまかしたんですが、やはり真田姓は危険なので片倉に戻りました。
寛文10年(1670年)に亡くなりましたが、大坂のほとぼりも冷めた孫の辰信の代から、めでたく真田姓に復帰しました。
彼のお墓は姉の阿梅の墓と寄り添うように立ってます。なんか、いいよね。
三男 幸信(三好幸信)
五女のなおと同じく、母は羽柴(三好)秀次の娘。
幸村が大坂で果てた二ヶ月後に生まれています。ああ不憫な子!
姉のなおの元に引き取られ、三好左馬之介幸信と称して380石で出羽亀田藩に仕えました。
とっつぁんの顔は知らないけど、がんばったね!
お墓は大八、阿梅のように、姉のなおと同じ寺にあります。
総評
けっこう、調べるのは楽しかったです。
もうこれでお腹いっぱい。ゲフッ。
みなさん、波瀾万丈の人生を歩んでらっしゃいますね。
一人、存在すらはっきりしない娘さんがいました。
今後の発見なんかでちゃんと確認されるといいな、とか思いましたよ。