その後の真田さんち


弐 -その後の真田信之-

天下の情勢は圧倒的に豊臣不利だというのに、敢えて義を通して一世一代の華を咲かすと言い張る無茶苦茶野郎の父と弟。
関ヶ原の戦いののち殺されるはずだったその二人の命を繋ぎ、さらには真田家を明治時代まで保たせた苦労人、それが真田信之です。
そんな苦労人なんですが93年も生きました。しかし、93年もの間苦労しっぱなしでした。
幼い頃は「源三郎」でした。弟なのに幸村は「源二郎」です。幼き日から父の期待は長男の彼ではなく幸村にあり。切なかったでしょうよ。
徳川寄りの奥さんをもらい、板挟みに苦しむ日々。そして徳川につくことを決めた日には、もともと「信幸」だったのに、父との決別を表して「信之」と改名までしました。
決別しても九度山への仕送りは欠かさず続けます。見捨てるなんてできません。そして大坂の陣が終わっても、孤独な戦いは続きました。
そして現代においても、浅はかなファンからは裏切り者のレッテルを貼られます。そんな人に言いたい。この人は偉大だよ!
徳川に楯突き力尽きた真田昌幸、華々しく散った真田幸村、死してなお徳川家に驚異を与え続ける彼らの肉親として、生き残った者の苦悩を一身に受けた彼のその後を追います。


寝大坂の陣

信之にいちゃんは、大坂の陣には行ってないんです。
病気をしていたらしいです。
大坂冬の陣の時、にいちゃんは寝ていました。
その時は長男の信吉と、次男の信政を自分の代わりに行かせました。
冬の陣は幸いにも、幸村VS我が子、という最悪の決戦は実現せずに済みました。
夏の陣の時もにいちゃんは寝てました。
ここでも息子二人が行き、やはり幸村とは戦うことなく帰ってきました。
戦の最中、きっと不安だったでしょう。息子二人と弟が戦うのかもしれない。
直接戦わなかったとしても、どちらが勝とうが愛する者を失うことになるだろう。
居ても立ってもいられなかったでしょう。でも自分は病床に縛られているのです。
きっと、悔しさのあまり……、ごろごろしたでしょう。
人間、横になっているときにいろいろ考えて不安になったり苦しくなったりしたら、横むいたり突っ伏したりを繰り返すよね。
その有様を人が見たら、ただごろごろ転がっているにすぎません。
つまり、上半身起こしたかもしれないし憶測の域を出ないのですが、真田信之は大坂の陣のとき、転がっていたと考えられます。考えられ、ません、か…?
いや、あんまりなオチだと思います、自分でも。こんなことでいいのか、しょっぱなから。


グッバイ 小松殿

いつまでも転がってはいられません。
元和2年(1616年)、信之にいちゃんは上田城に入り、パパの昌幸が、息子たちを敵味方に分けてでも守りたかった領地を自分で治める決意をしました。
沼田城には長男の信吉が入りました。
同じ年、徳川家康が逝ってしまいました。
このお方の死により、関ヶ原の戦い以降真田が憎らしくてたまらない二代将軍秀忠が一瞬ニヤリとします。陰険な方です。
ただ、信之にいちゃんを信頼していた家康がいなくなっただけでは、復讐(やつあたり)が始められないんです。
にいちゃんの奥さん、小松殿が旦那を守っていました。
小松殿は猛将、本田忠勝の娘にして家康の養女。さすがの秀忠も手を出すわけにはいきません。
ところがどっこい、上田の地もにいちゃんの善政でいい感じになってきた矢先、小松殿が病死します。
彼女は人質として江戸にいたのですが、病気の療養のために上野草津に向かう途中、亡くなってしまいました。元和6年(1620年)のことでした。
そりゃあ、無茶だよなあ。江戸から群馬に重病人運ぶ時点で。
それを知ったにいちゃんは、「我が家の燈火は消え失せたり」と言ったそうです。
彼が秀忠から呼び出されるのは、二年後のことでした。

小松殿は多くの意味で、信之にとっての『燈火』なのでした。


おいでませ松代

元和8年(1622年)、江戸に呼び出された我らが信之にいちゃんは、上田から松代への移封を命じられます。
「そりゃないゼとっつぁ〜ん」と呟きながら
もにいちゃんは逆らうことができません。
徳川には忠誠を誓ったし、父、昌幸の志を継いで真田家を守ることを決めた彼には無茶はできません。
帰り道、「上意でもあり子孫のために松代へ移る」という内容の、恨みたっぷりこの世の果てまで、な愚痴手紙を家臣に出しています。
僕は秀忠が蕁麻疹が出るほど嫌い、ってわけでもないのですが、他国ではなく信濃国中である松代への移封は、優しさじゃなくていやがらせだと思えるんです。
だって上田の地は目と鼻の先でいろいろ情報は入ってくるのに何もできないんですよ。そうとう陰険だと思ってしまいます。
松代は上田と違い、荒れ地が多く、水害が多く、普通ならくじけそうなところなんです。
でもここはマジメ一徹信之にいちゃん。この地で真田の家を守り抜こうと決意し直しました。


お家騒動と晩年

寛永11年(1637年)、まず沼田城にいた長男、信吉が亡くなります。
沼田は信吉の息子、熊之助が継ぎますが数年後に亡くなり、信之にいちゃんの次男、信政が沼田に入ります。
この一件ですでに父として最凶の修羅場ですが、これでは、済まなかったんです。

80歳を越えた信之にいちゃん、いや、もはやじいちゃんは、いい加減隠居しようとしていたんですが、幕府からなかなか許可がおりませんでした。
そしてようやく許可が下りたときじいちゃんは92歳!これはかなり悪質ないじめだと思うんですよね。
92歳の信之じいちゃんは一当斎と名乗って娘とともに静かに晩年を迎えようと、城からちょっと離れたところへ隠居しました。
信之じいちゃんのあとに松代藩主になったのは、沼田にいた次男の信政。沼田には亡き長男、信吉の息子にして熊之助の弟である信利が入りました。

翌年、信之じいちゃん93歳。信政が、跡を継いでたった半年で急死します。
遺言では、六男の右衛門佐(幸道)を跡継ぎに、ということだったのですが、ここに沼田藩主の信利が割り込んできました。
「そりゃあ遺言は大事ですが右衛門佐ちゃまはバブバブ2歳。それに対して私は熟れたナイスミドル。バックには老中の酒井サマもついてますよ!」という信利。
もうヘロヘロの信之じいちゃんのもとへ、右衛門佐派と信利派のそれぞれの人たちがやってきます。みなさんじいちゃんを味方につけようと必死です。
じいちゃんにとっては右衛門佐ちゃまも信利さんもかわいい孫。お家問題は右衛門佐ちゃまが継ぐことで落ち着きましたが、精神的に未だかつてないほど参ってしまいます。
参ってしまったから、というより天寿をまっとうしたからなんだと思いますが、この年、信之じいちゃんは病臥するようになり、間もなく息を引き取りました。


総評

あんまりです。
93年も生きたのに、亡くなる直前まで孫同士で骨肉の争い。ちょっとはいたわってほしいですよね。
今回もあまりカタくならないようにおもしろおかしく語ろうとしたのですが、この人の生涯、ボケ所がどこにもないんです。
さすがマジメな信之にいちゃん。
しかし彼の苦労が真田家を明治まで保たせたのです。無駄ではありませんでしたとも。
彼の大坂の陣以前の苦労についてはまた後ほど、どこかで。


 -幸村の子供たち-





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